本など高校時代にほとんど読むことのなかった僕が、なぜ「沈黙」を手にしたのかとえば、それが授業の教材であったからなのだが。僕はそのストーリーに引きつけられた。境遇が余りに似ていたからだ、そして、それ以上に主人公の内的心理が、僕の共感を誘った。あまっさえ、その作品の中で新たな視点を教示されたといってよい。その視点とは、憎悪ではなく、哀れみという感情である。
僕が、残りの半年間、学校に通いつづけることができたのは、ひとえにこの哀れみ、という感情をもつことができたゆえである。
「沈黙」を読んで以来、僕は、障害の真似をして楽しむ輩を見て、憎悪ではなく彼らを心底かわいそうだと哀れんだ。高校3年にもなって、そんなことに楽しみを見出している彼等に。その彼等の心の貧しさに。それとともに、その時僕の中に一つの侵してはならない理性の境界が創出されたのも、いわば、自然のことであった。理性の境界とは、自分が人間らしくいられるであろう境界のことである。後に肥大し、善悪・道徳強迫として僕を苦しめるに至るその境界は、実は、僕が小学生であった頃からその萌芽は見られたのであるが、このとき初めて、自分の中で考えうる限りの完全な理をもって、眼前へと形を現出させたのである。
当然僕にも、自尊心というものはある。それは、優越感や虚栄心などではない。1人の人間としての、存在意義としての自尊心である。それは、まったく自分1人に適用できる定義である。しかし、それがゆえにいっそ強固な、つまりは自分の自己同一性ととなり得たのであった。
僕は、僕の障害を真似する彼等を哀れんだ。それは、自分がそういう人間へと堕することへの飽くなき対抗を宣誓するということでもある。自分がかれらと同じことを無意識がゆえにも侵してしまい、またそれを悔い改めることも、また、贖罪の機会も持とうとしないのであらば、その行為をもってして、僕は彼等に敗北する。そして、それだけにと止まらず、自己の存在をも否定することになるのである。僕が彼等と同じことを他の誰かに行えば、僕が彼等にもった憎悪、そして哀れみという感情は一度にしてその根拠を失う。その感情は空無となってしまう。それは、彼らという存在の認容、彼等の存在がなす行為への認容。しからば、其の下に組み敷かれるであろう僕と同じ境遇の人々はどうなるのか?そう、僕が彼等の行為を認容することは、必然的に其の下で、犠牲となる人々の状況をも認め、甘受を良しとすることになるのである。
つまりは自己の否定である。
このゆえを持って、僕は、誰かを傷つける行動に対して小心翼翼とするようになっていく。
なお、その頃の読んだ書が、村上春樹氏の「沈黙」であったことは、大学に入ってから知った。つまり、僕が高校時代に覚えていたのは、その内容だけであったのだが、大学に入り、本格的に本を読もうと思い立った時、最初に手をつけたのが村上春樹氏であったことは、因縁めいたものを感じずにはいられないエピソードである。

続く。

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