僕が、大学に入るとき、何故広島を選んだか?
それは、テニスの強い大学に行きたかったとか、県外に出て、より広い視野を身につけたかったとか、見聞を広めたかったとか。
確かに、そういった部分がなかったとはいわない。しかし、ホントのところは、そんなこと僕にとっては建前でしかなかった。
大分を離れることによって、一度自分をリセットし、新しい自分を構築していく。僕が広島に行った理由。否、広島じゃなくてもどこでも良かった、僕が大分を離れたのは、この、新しい出発、ということに尽きる。
何故大分を離れなければならなかったのか?
大分には、僕が育ってきた過去があるからだ。僕は、大分を離れることにより、過去から、決別しようと思った。厳密に言えば、過去に僕を苦しめたさまざまな思い出や、人間関係から。
確かにそれは逃避であろう。しかし、その当時、僕にはそうするしか、方法はないように思われた。今思えば、そのくらい追い詰められていたんだろうと思う。
僕は、人を疑るのは嫌いだ。だから、その人の言った事を心のそこから信じたいと思っているし、実際そうしてきたつもりだ。信頼が深ければ深いほど、壊れたときの修復は難しい。
僕は高校3年の後半、半年間、障害の真似をされた。クラスの半分の男子から。
それは巧妙に行われた。授業中に響く声、「プシュ、プシュ」いたる所から聞こえてくる。
少しして、それが、僕の強迫行為である、「喉鳴らし」、の真似であることをしる。それは、毎日続いた。最初は気にもとめていなかったが、ボディーブローの如くに、その鳴声は、僕の心を蝕んでいった。
そして、その真似をしていた男子の中に、僕と共に部活で研鑽を積んできた盟友もいた。
学校は、一つの社会の縮図であるからして、往々、こういったことが起こりうるのは当然であるが、その友達は、その僕がまだ仲間だと思っていた彼は、自分が学校という社会のアウトサイダーとなることへの恐怖から、僕と共にあることより、自分の保身を選択した。
そのころの僕を、人間不信へ導かせるには、その彼の「選択」を持ってするだけで充分だった。
友とは、一体どういったものだろう。僕が人間不信へ傾斜していったとしても、そこにまだ支柱となるべき存在があれば、まだ立て直すことが出来ただろう。その支柱となるべき存在こそが、友ではないのか?僕は、他の部活のメンバーに救いを求めた。しかし、返ってきたものは、寄る辺なき無関心だったのである。誰一人として、僕の感情の変化に気を止めるものはいなく、誰一人として、僕の相談を最後まで聞こうとするものはいなかった。彼等は、僕の感情の変化を、一顧だにせずに、考えることもなく、「訳のわからないもの」として放棄した。そして、僕の中から、友という定義が瓦解していった。
信頼は、そのまま、猜疑へと変貌した。そしてある種の人間への定款が、僕の心の内に芽生えた。「信頼に足る人間など、この世には存在せず」、それは、いわば、そのころの僕の自己防衛本能が下した結論であったのだろう。その諦観こそが、僕の支柱となっていったわけである。そして、その結論に至る一つの契機となったのが、村上春樹氏の短編「沈黙」との出会いである。
続く。
それは、テニスの強い大学に行きたかったとか、県外に出て、より広い視野を身につけたかったとか、見聞を広めたかったとか。
確かに、そういった部分がなかったとはいわない。しかし、ホントのところは、そんなこと僕にとっては建前でしかなかった。
大分を離れることによって、一度自分をリセットし、新しい自分を構築していく。僕が広島に行った理由。否、広島じゃなくてもどこでも良かった、僕が大分を離れたのは、この、新しい出発、ということに尽きる。
何故大分を離れなければならなかったのか?
大分には、僕が育ってきた過去があるからだ。僕は、大分を離れることにより、過去から、決別しようと思った。厳密に言えば、過去に僕を苦しめたさまざまな思い出や、人間関係から。
確かにそれは逃避であろう。しかし、その当時、僕にはそうするしか、方法はないように思われた。今思えば、そのくらい追い詰められていたんだろうと思う。
僕は、人を疑るのは嫌いだ。だから、その人の言った事を心のそこから信じたいと思っているし、実際そうしてきたつもりだ。信頼が深ければ深いほど、壊れたときの修復は難しい。
僕は高校3年の後半、半年間、障害の真似をされた。クラスの半分の男子から。
それは巧妙に行われた。授業中に響く声、「プシュ、プシュ」いたる所から聞こえてくる。
少しして、それが、僕の強迫行為である、「喉鳴らし」、の真似であることをしる。それは、毎日続いた。最初は気にもとめていなかったが、ボディーブローの如くに、その鳴声は、僕の心を蝕んでいった。
そして、その真似をしていた男子の中に、僕と共に部活で研鑽を積んできた盟友もいた。
学校は、一つの社会の縮図であるからして、往々、こういったことが起こりうるのは当然であるが、その友達は、その僕がまだ仲間だと思っていた彼は、自分が学校という社会のアウトサイダーとなることへの恐怖から、僕と共にあることより、自分の保身を選択した。
そのころの僕を、人間不信へ導かせるには、その彼の「選択」を持ってするだけで充分だった。
友とは、一体どういったものだろう。僕が人間不信へ傾斜していったとしても、そこにまだ支柱となるべき存在があれば、まだ立て直すことが出来ただろう。その支柱となるべき存在こそが、友ではないのか?僕は、他の部活のメンバーに救いを求めた。しかし、返ってきたものは、寄る辺なき無関心だったのである。誰一人として、僕の感情の変化に気を止めるものはいなく、誰一人として、僕の相談を最後まで聞こうとするものはいなかった。彼等は、僕の感情の変化を、一顧だにせずに、考えることもなく、「訳のわからないもの」として放棄した。そして、僕の中から、友という定義が瓦解していった。
信頼は、そのまま、猜疑へと変貌した。そしてある種の人間への定款が、僕の心の内に芽生えた。「信頼に足る人間など、この世には存在せず」、それは、いわば、そのころの僕の自己防衛本能が下した結論であったのだろう。その諦観こそが、僕の支柱となっていったわけである。そして、その結論に至る一つの契機となったのが、村上春樹氏の短編「沈黙」との出会いである。
続く。
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