苦痛は、快楽である。
2003年12月7日 僕の思ったことドストエフスキー現象ってよくいうけど、具体的にどういう現象のことをいうんだろうね。
僕は大学に入るまでほとんど本なんて読まない人間だったんだけど、大学3年の頃に、村上春樹を全部読んでみようって思い立ったんだ。朝から晩まで読みつづけ、約1ヵ月半でだいたい読み終えてしまった。
でも、これで調子にのっちゃったんだね。僕が、次に選んだのはなんと、ドストエフスキー。もちろん村上春樹と一緒だとは思わなかったけれど。その頃の僕は、へんに文学に対する熱を帯びてて、また、ドストという壁を超えれば、今後どんな書物に相対しても、動じることはないだろうなんて思ってた。今となっては若気の至り。完全になめてたよね。
たいした量も読んでなかったのに、村上春樹を制覇したってだけで、あたかも文学をわかったような顔をしてた。
多くの人が歩むであろうさまざまな読書を経てドストエフスキーに至るという行程を経ずして、僕は手を出してしまったわけなのだ。しかも、愚かなことに、僕は経済学部なのに、文学への憧れに突き動かされ、卒論にドストを選んでしまったのである。ああ、なんたるちゃ。
卒論の資料に使った金額8万円。東京まで出向いて神保町で購入した。なんたるちゃ、もう後には引けなかったわけなのじゃ。
さてさて、読み始めて1週間、僕は、大変な勘違いをしていたことを大悟する。まず、行間が狭い。読めない漢字が多すぎる。ロシアの人名が複雑過ぎる。そして、なによりも、そのドストエフスキーの独特の文体、その、統一感のなさ。はい、僕はバカでした。
脳裏に、留年、の2文字がよぎる。今や、目の前に立ちはだかる卒論の研究課題は、富士山ではなく、エベレストへとその高みを増しているのである。それに比すれば、僕など、一介の登山愛好家にすぎぬのだ。
その頃の僕はまだ、電子辞書なる最強の助っ人を擁してなく、その、単語を調べなければ先へ勧めないという強迫に、パソコンの辞書で立ち向かっていくしかなかった。というのも、一語一語、調べたら、その内容をコピー、ペーストし、印刷していたから。
当然これは、読み勧めるのに村上春樹の5倍といわぬ時間を要するであろうことは想像に難くなかった。
僕は併読していた、北杜夫『楡家の人々』を放棄して、ドストにかかりっきりにならざるを得なかったのである。
しかししかし、しかーし、行く手をさえぎる悪魔は至るところから数々の困難をこしらえてくる。ただでさえ、強迫で忙しい僕に、アトピーという災厄が降りかかってきたのだ。しかも顔に!!
正直、これは辛かった、死ぬかと思ったよ。まあ、日ごろの不摂生の賜物なのだけど。痒いのって、痛いのより辛い。ということを、この経験で僕ははっきり確信した。
唯一自慢だった眉毛は抜け落ちて麻呂みたいになり、今も完全にはもどってないし、しくしく。まぶたも腫れて、本を読むどころではなくなり1日中寝て、起きたらシャワーを浴びるという生活。よく耐えられたと思う。以後、僕は健康マニアへと転向するのじゃけどね。
夏は、これで終わった。アトピーは治らなかったが、夏が過ぎ、痒みがすこうし軽減したところで、また少しずつ、僕はドストを読み進めていった。
全部は読めなかった。しかし、岩波、新潮で出ている彼の小説は読破できた。卒論提出の2週間前である。
僕には、もう、検証も、自分なりの論点を考える気力もなければ、時間も残っていなかった。卒論は、ほとんどすべてが他の本の抜粋、受け売りになってしまった。埴谷雄高さん、小林秀雄さんその他の方々、本当に申し訳ございません。
僕にとってのドストエフスキー現象。それは、まさに、この七転八倒した卒論の体験を言うのかもしれないなあ。
なんて思いながらも、ドストエフスキーに、内面的な影響は受けなかったのかっていうと、きっとものすごく受けてるんだと思う。僕は、少なくとも、その後の僕の思考をより内省的な方向へと向かわしむる決定的な要因となったのは、ドストエフスキーを読んだ経験なのだと、今は思っている。あの時はよくわからなかったが、彼の小説には、心にいつまでも刻みついてとれない、独特、かつ強烈なパワーがある。これは、まだ僕がそれほど本を読んでいないから感じるのかもしれない。あるいは、この先彼を凌ぐほどの印象をもたらす小説に出会うかもしれないが、今の時点では、僕の心に言い知れぬ衝撃を与えたという意味では、彼を超える作家を僕は知らない。
思うにそれは、生々しさなんだと思う。彼の小説は、非常に切実である。彼の苦悩がその文体に投影されているように思う。読むものをたじろがせるほどの苦悩が。彼の文体の統一感のなさ、そのなかに彼の生活の生生しさを僕は感じた。生きるために書いた作家。生に対する混沌とした感情が、彼の文体そのものなのではないか。
僕は、この作家が好きなのだろうか?きっと好きなんだろう。ではどこがそんなに好きなのか?わからない。ずっと心の中で問いかけていた。そんな時、僕は黒澤明の言葉に出会う。
「僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそうゆうやさしさですね。あの人はその場合目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持ってると思うと僕は思うのです」
彼は、誠実である。自分に対しても、人間に対しても。癲癇を恐れ、ギャンブルに身を宿し、困窮し、愛されることを求める。そしてそれ以上に他人を愛そうとした。人間の明と暗、ドストエフスキーはそこに身を浸し苦悩しまた、楽しんだ。苦痛もまた、快楽なのだと。
人間、限界を予測し、無理をせぬのもまた真理。しかし、自分の限界をこしらえず、無鉄砲をすることで得られることがあるのもまた真理なのだ。卒論での僕の無鉄砲は、愚昧な1人の学生にドストエフスキーを投げ出さずに読ませるためには必要な所作であったのである。
残された未読の『作家の日記』。僕は恐れを抱きつつ、それを読む日を楽しみに、書架を眺める。
以下、僕のお勧めドスト本。
●『悪霊』・・・キーワードは、「ペトラシェフスキー事件」と「ネチャーエフ事件」。最も、衝撃を受けた作品。
●『白痴』・・・ストーリーとして、とても面白かった。ドストのヒューマニズムの結晶としてのムイシュキン。僕は肯定したい。
●『賭博者』・・・興奮しました。ドストの内面を覗いているよう。その葛藤はすさまじい。
●『虐げられた人々』・・・少女の、抑圧された心が解きほぐされていく過程が秀逸。
なお、僕の日記の題名は、『地下室の手記』が基になっているのであった。
僕は大学に入るまでほとんど本なんて読まない人間だったんだけど、大学3年の頃に、村上春樹を全部読んでみようって思い立ったんだ。朝から晩まで読みつづけ、約1ヵ月半でだいたい読み終えてしまった。
でも、これで調子にのっちゃったんだね。僕が、次に選んだのはなんと、ドストエフスキー。もちろん村上春樹と一緒だとは思わなかったけれど。その頃の僕は、へんに文学に対する熱を帯びてて、また、ドストという壁を超えれば、今後どんな書物に相対しても、動じることはないだろうなんて思ってた。今となっては若気の至り。完全になめてたよね。
たいした量も読んでなかったのに、村上春樹を制覇したってだけで、あたかも文学をわかったような顔をしてた。
多くの人が歩むであろうさまざまな読書を経てドストエフスキーに至るという行程を経ずして、僕は手を出してしまったわけなのだ。しかも、愚かなことに、僕は経済学部なのに、文学への憧れに突き動かされ、卒論にドストを選んでしまったのである。ああ、なんたるちゃ。
卒論の資料に使った金額8万円。東京まで出向いて神保町で購入した。なんたるちゃ、もう後には引けなかったわけなのじゃ。
さてさて、読み始めて1週間、僕は、大変な勘違いをしていたことを大悟する。まず、行間が狭い。読めない漢字が多すぎる。ロシアの人名が複雑過ぎる。そして、なによりも、そのドストエフスキーの独特の文体、その、統一感のなさ。はい、僕はバカでした。
脳裏に、留年、の2文字がよぎる。今や、目の前に立ちはだかる卒論の研究課題は、富士山ではなく、エベレストへとその高みを増しているのである。それに比すれば、僕など、一介の登山愛好家にすぎぬのだ。
その頃の僕はまだ、電子辞書なる最強の助っ人を擁してなく、その、単語を調べなければ先へ勧めないという強迫に、パソコンの辞書で立ち向かっていくしかなかった。というのも、一語一語、調べたら、その内容をコピー、ペーストし、印刷していたから。
当然これは、読み勧めるのに村上春樹の5倍といわぬ時間を要するであろうことは想像に難くなかった。
僕は併読していた、北杜夫『楡家の人々』を放棄して、ドストにかかりっきりにならざるを得なかったのである。
しかししかし、しかーし、行く手をさえぎる悪魔は至るところから数々の困難をこしらえてくる。ただでさえ、強迫で忙しい僕に、アトピーという災厄が降りかかってきたのだ。しかも顔に!!
正直、これは辛かった、死ぬかと思ったよ。まあ、日ごろの不摂生の賜物なのだけど。痒いのって、痛いのより辛い。ということを、この経験で僕ははっきり確信した。
唯一自慢だった眉毛は抜け落ちて麻呂みたいになり、今も完全にはもどってないし、しくしく。まぶたも腫れて、本を読むどころではなくなり1日中寝て、起きたらシャワーを浴びるという生活。よく耐えられたと思う。以後、僕は健康マニアへと転向するのじゃけどね。
夏は、これで終わった。アトピーは治らなかったが、夏が過ぎ、痒みがすこうし軽減したところで、また少しずつ、僕はドストを読み進めていった。
全部は読めなかった。しかし、岩波、新潮で出ている彼の小説は読破できた。卒論提出の2週間前である。
僕には、もう、検証も、自分なりの論点を考える気力もなければ、時間も残っていなかった。卒論は、ほとんどすべてが他の本の抜粋、受け売りになってしまった。埴谷雄高さん、小林秀雄さんその他の方々、本当に申し訳ございません。
僕にとってのドストエフスキー現象。それは、まさに、この七転八倒した卒論の体験を言うのかもしれないなあ。
なんて思いながらも、ドストエフスキーに、内面的な影響は受けなかったのかっていうと、きっとものすごく受けてるんだと思う。僕は、少なくとも、その後の僕の思考をより内省的な方向へと向かわしむる決定的な要因となったのは、ドストエフスキーを読んだ経験なのだと、今は思っている。あの時はよくわからなかったが、彼の小説には、心にいつまでも刻みついてとれない、独特、かつ強烈なパワーがある。これは、まだ僕がそれほど本を読んでいないから感じるのかもしれない。あるいは、この先彼を凌ぐほどの印象をもたらす小説に出会うかもしれないが、今の時点では、僕の心に言い知れぬ衝撃を与えたという意味では、彼を超える作家を僕は知らない。
思うにそれは、生々しさなんだと思う。彼の小説は、非常に切実である。彼の苦悩がその文体に投影されているように思う。読むものをたじろがせるほどの苦悩が。彼の文体の統一感のなさ、そのなかに彼の生活の生生しさを僕は感じた。生きるために書いた作家。生に対する混沌とした感情が、彼の文体そのものなのではないか。
僕は、この作家が好きなのだろうか?きっと好きなんだろう。ではどこがそんなに好きなのか?わからない。ずっと心の中で問いかけていた。そんな時、僕は黒澤明の言葉に出会う。
「僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそうゆうやさしさですね。あの人はその場合目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持ってると思うと僕は思うのです」
彼は、誠実である。自分に対しても、人間に対しても。癲癇を恐れ、ギャンブルに身を宿し、困窮し、愛されることを求める。そしてそれ以上に他人を愛そうとした。人間の明と暗、ドストエフスキーはそこに身を浸し苦悩しまた、楽しんだ。苦痛もまた、快楽なのだと。
人間、限界を予測し、無理をせぬのもまた真理。しかし、自分の限界をこしらえず、無鉄砲をすることで得られることがあるのもまた真理なのだ。卒論での僕の無鉄砲は、愚昧な1人の学生にドストエフスキーを投げ出さずに読ませるためには必要な所作であったのである。
残された未読の『作家の日記』。僕は恐れを抱きつつ、それを読む日を楽しみに、書架を眺める。
以下、僕のお勧めドスト本。
●『悪霊』・・・キーワードは、「ペトラシェフスキー事件」と「ネチャーエフ事件」。最も、衝撃を受けた作品。
●『白痴』・・・ストーリーとして、とても面白かった。ドストのヒューマニズムの結晶としてのムイシュキン。僕は肯定したい。
●『賭博者』・・・興奮しました。ドストの内面を覗いているよう。その葛藤はすさまじい。
●『虐げられた人々』・・・少女の、抑圧された心が解きほぐされていく過程が秀逸。
なお、僕の日記の題名は、『地下室の手記』が基になっているのであった。
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