急がば回れの自己開放
2003年11月11日 僕の思ったこと僕は強迫性障害者だから、人に理解して欲しいと思う。思ってばかりじゃ埒があかん。僕達にも説明責任がある。だから、説明していこうと決意した。
だけど説明しても親身になって聞いて、悩んでくれる人はなかなかいない。ともすれば、嫌な顔して引く人もいる。
でも、そのやな顔した人がある日突然強迫性障害に陥ったら、その人はいったいどうするんだろう?
同じように他人が理解してくれないと憤るのだろうか?でも、その人もちょっと前まで理解しようとしなかったじゃない?その人には、果たして憤る権利があるのだろうか?
それは単なるエゴじゃろ。自分がしなかったことを他人には自分にして欲しい。
なんて虫がいいのだろうか。
人間って自分の身に降りかからないことには真剣になれない。ああ、度しがたい存在だなあ。
では、僕はどうだろう?自分の障害をわかって欲しいとばかり願い、他人の悩みや、苦しみ、病気をわかろうと努力しているだろうか?親身になっているだろうか?
もししていないなら、僕は自分の病気を人にわかってくれと訴える資格はない。そんな理屈に行きついてしまった。
少し敷衍させてみる。戦争や紛争、などを外国のことだと思い、無関心。僕たちの国が戦争に陥ったら?
だから、愛国心があるなら、自分の民族や、家族を思うなら、政治や国際関係を学ぶ義務がある。と思う。
これは僕の善悪・道徳強迫を形成している一角だ。
同じ病気でない限り、その病気に関して聞く側は常に健常者だ。つまり、僕は強迫性障害だが、癌の人から悩みを聞く場合、僕は癌に関しては罹患していないので健常者になる。
そのときに僕は癌患者の苦しみを理解しようと努力することが大切なのだろう。
単純に、非常に単純に、あくまで大まかに言うと、自分がやられたくないことは人にするな、自分がして欲しいことは自分も人にしろ(詳しくいうと少し違うんだけど、ある一定の不変的な感情を前提として)ということなんじゃないかな。
明日はわが身、だから人は助け合い分かり合うべきだと。。。
僕は、話す側は説明する際のある程度の不理解の妥協と、聞く側は聞く耳を持ち理解しようとする努力がお互いの円滑な関係を保つ肝要だと考える。
互いに与え合うわけだが、これは、正常な意思疎通(感情の共通了解)を前提としている。
問題となるのは、この互いの作用が成立しない場合である。
ひとつの例として境界性人格障害という障害がある。彼らは与えることがなかなかできない。というより、助けられたいという欲求や、相手に親愛、感謝の念を抱いていても、中傷や迷惑をかけることでしか関係を持つことができなかったりする。
だから、彼らは自分をわかってもらいたくも、相手をわかろうとする行動をとる余裕がない、もしくは客観的にそのように見られてしまう。
自然、彼らを助けようとする者は限られてくる。そして、彼らは孤独からますます不全感におちいり、ますます障害を悪化させる。
これは、つまり、もっとも助けを必要としている人ほど、人は助けたがらない。人が助けたがらないから、彼らの病は最も助けを必要とする。悪循環である。
しかし、やはり僕たちは彼らを助けようとする義務があると思う。なぜなら彼らもまた、先に述べた仕組みの中に当然組みこまれているからだ。
明日もし自分が境界性人格障害となれば、当然僕は態度には示せなくとも助けを求めるだろうから。
さて、こういった人々を助けようとすると、ある程度自分の人生の時間を削られることも覚悟しなきゃならない。これは、僕も含めたほとんどの人にとって大変難しいことだ。
人生の時間を削るとは、自分のための人生を裂いて相手のためにその自分の時間を丸々費やすということだからだ。これを行おうと思えばそこにはどのようなかたちであれ、無私を貫かなければならない場合が出てくる。
お互いが与え合う場合であっても、引く人が出てくるのは、他人の話しを聞くことに、意図せざる自分の時間の消耗を予感させるからだ。
マザーテレサなどに僕があこがれるのは、そこに、お互いが与え合う、明日はわが身という理屈を超えた、一段高いところ、つまり無私の精神を貫いた強靭さをみるからである。
このような人々を稀に偽善と呼び嘲笑するものもいるが、そのようなことが言えるのはそれを成し遂げられた者以外にはいない、つまり偽善という侮蔑は、逆説的にそれを成し遂げえる人々への賞賛を意味しているのだ。
もう一度言う、僕は僕を理解して欲しい。だから僕の病気を理解して欲しい。だから他人の病気や人生の辛さも他人事ではなく、理解しようと努力したいし、他の人にも努力して欲しい。つまりすべての人を理解はできないが、理解しようと努力することはできる。すべての人を理解しようと努力するなら、当然無私の心で中傷に耐えなければ力になってあげられないような人々も出てくる。それを貫くことは大変難しいが、人間の幸せ、引いては自分の救済を考えるなら、まずは自分がそういう苦しんでいる人たちの力になろうと思い、行動し、努力していくしかない。そして、マザーテレサのようになることは無理でも僕たちは努力し、その努力を継続することはできる。そして、みんなが無私の心を持ち得るようになれば、自分のエゴがなくとも、他人の理解がその間隙を補完しあう。無私の心を持つことはめぐりめぐって自分を理解してもらうことにつながるのだ。
まあ、夢物語だけども。だからといってニヒリズムに陥るよりも、その理想を夢見ながら努力し続けていきたいわけなのよ。そしてそれが、まあ、生きがいにもつながったりなんかしちゃったりして。
なお、これはあくまで僕の中での真理だから。
んで残念ながらこの場合、自分が病気になったり、悲しみに打ちひしがれたりしたとき、他人にわかってもらいたい支えてもらいたいと欲しない絶対的な自信と確信があるのなら、別に他人の気持をわかろうとしなくても、僕には何を言う権利もないって理屈になってしまうんやけど、果たしてそんな人いるんやろか?
ああ、構成もなんもあったもんじゃない。まあ、ニュアンスぐらいは伝わってくれればいいなあ。。。
だけど説明しても親身になって聞いて、悩んでくれる人はなかなかいない。ともすれば、嫌な顔して引く人もいる。
でも、そのやな顔した人がある日突然強迫性障害に陥ったら、その人はいったいどうするんだろう?
同じように他人が理解してくれないと憤るのだろうか?でも、その人もちょっと前まで理解しようとしなかったじゃない?その人には、果たして憤る権利があるのだろうか?
それは単なるエゴじゃろ。自分がしなかったことを他人には自分にして欲しい。
なんて虫がいいのだろうか。
人間って自分の身に降りかからないことには真剣になれない。ああ、度しがたい存在だなあ。
では、僕はどうだろう?自分の障害をわかって欲しいとばかり願い、他人の悩みや、苦しみ、病気をわかろうと努力しているだろうか?親身になっているだろうか?
もししていないなら、僕は自分の病気を人にわかってくれと訴える資格はない。そんな理屈に行きついてしまった。
少し敷衍させてみる。戦争や紛争、などを外国のことだと思い、無関心。僕たちの国が戦争に陥ったら?
だから、愛国心があるなら、自分の民族や、家族を思うなら、政治や国際関係を学ぶ義務がある。と思う。
これは僕の善悪・道徳強迫を形成している一角だ。
同じ病気でない限り、その病気に関して聞く側は常に健常者だ。つまり、僕は強迫性障害だが、癌の人から悩みを聞く場合、僕は癌に関しては罹患していないので健常者になる。
そのときに僕は癌患者の苦しみを理解しようと努力することが大切なのだろう。
単純に、非常に単純に、あくまで大まかに言うと、自分がやられたくないことは人にするな、自分がして欲しいことは自分も人にしろ(詳しくいうと少し違うんだけど、ある一定の不変的な感情を前提として)ということなんじゃないかな。
明日はわが身、だから人は助け合い分かり合うべきだと。。。
僕は、話す側は説明する際のある程度の不理解の妥協と、聞く側は聞く耳を持ち理解しようとする努力がお互いの円滑な関係を保つ肝要だと考える。
互いに与え合うわけだが、これは、正常な意思疎通(感情の共通了解)を前提としている。
問題となるのは、この互いの作用が成立しない場合である。
ひとつの例として境界性人格障害という障害がある。彼らは与えることがなかなかできない。というより、助けられたいという欲求や、相手に親愛、感謝の念を抱いていても、中傷や迷惑をかけることでしか関係を持つことができなかったりする。
だから、彼らは自分をわかってもらいたくも、相手をわかろうとする行動をとる余裕がない、もしくは客観的にそのように見られてしまう。
自然、彼らを助けようとする者は限られてくる。そして、彼らは孤独からますます不全感におちいり、ますます障害を悪化させる。
これは、つまり、もっとも助けを必要としている人ほど、人は助けたがらない。人が助けたがらないから、彼らの病は最も助けを必要とする。悪循環である。
しかし、やはり僕たちは彼らを助けようとする義務があると思う。なぜなら彼らもまた、先に述べた仕組みの中に当然組みこまれているからだ。
明日もし自分が境界性人格障害となれば、当然僕は態度には示せなくとも助けを求めるだろうから。
さて、こういった人々を助けようとすると、ある程度自分の人生の時間を削られることも覚悟しなきゃならない。これは、僕も含めたほとんどの人にとって大変難しいことだ。
人生の時間を削るとは、自分のための人生を裂いて相手のためにその自分の時間を丸々費やすということだからだ。これを行おうと思えばそこにはどのようなかたちであれ、無私を貫かなければならない場合が出てくる。
お互いが与え合う場合であっても、引く人が出てくるのは、他人の話しを聞くことに、意図せざる自分の時間の消耗を予感させるからだ。
マザーテレサなどに僕があこがれるのは、そこに、お互いが与え合う、明日はわが身という理屈を超えた、一段高いところ、つまり無私の精神を貫いた強靭さをみるからである。
このような人々を稀に偽善と呼び嘲笑するものもいるが、そのようなことが言えるのはそれを成し遂げられた者以外にはいない、つまり偽善という侮蔑は、逆説的にそれを成し遂げえる人々への賞賛を意味しているのだ。
もう一度言う、僕は僕を理解して欲しい。だから僕の病気を理解して欲しい。だから他人の病気や人生の辛さも他人事ではなく、理解しようと努力したいし、他の人にも努力して欲しい。つまりすべての人を理解はできないが、理解しようと努力することはできる。すべての人を理解しようと努力するなら、当然無私の心で中傷に耐えなければ力になってあげられないような人々も出てくる。それを貫くことは大変難しいが、人間の幸せ、引いては自分の救済を考えるなら、まずは自分がそういう苦しんでいる人たちの力になろうと思い、行動し、努力していくしかない。そして、マザーテレサのようになることは無理でも僕たちは努力し、その努力を継続することはできる。そして、みんなが無私の心を持ち得るようになれば、自分のエゴがなくとも、他人の理解がその間隙を補完しあう。無私の心を持つことはめぐりめぐって自分を理解してもらうことにつながるのだ。
まあ、夢物語だけども。だからといってニヒリズムに陥るよりも、その理想を夢見ながら努力し続けていきたいわけなのよ。そしてそれが、まあ、生きがいにもつながったりなんかしちゃったりして。
なお、これはあくまで僕の中での真理だから。
んで残念ながらこの場合、自分が病気になったり、悲しみに打ちひしがれたりしたとき、他人にわかってもらいたい支えてもらいたいと欲しない絶対的な自信と確信があるのなら、別に他人の気持をわかろうとしなくても、僕には何を言う権利もないって理屈になってしまうんやけど、果たしてそんな人いるんやろか?
ああ、構成もなんもあったもんじゃない。まあ、ニュアンスぐらいは伝わってくれればいいなあ。。。
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