人間らしく生きるとはいったいどういうことだろう。それは、自分らしく生きるって事なんだろう。

なら自分らしく生きるってどういうことなんだろう?それは、自分であることを恥じないってことなんだろうね。

僕が、自分らしく生きようと思った場合、強迫性障害である自分を恥じないって事なんだ。

そのことに気づいたのはつい最近だ。
それ以来、僕は自分が障害であることを話していこうと努力している。

しかし、じゃあ、あなたはどんな強迫を持ってるんだと問われれば、具体的な症状は僕はまだ話せないでいるんだ。

僕は今まで強迫を隠しつづけてきた。隠せずに迫害を受けたこともある。だからなおさら巧妙に隠そうとする癖が知らず知らずについてしまった。

大学を卒業し、ようやく病気である自分を受け入れ、公言していこうと決意はしても、話す陰から過去の辛い思い出が蘇ってくる。

障害を知られることと、奇人にみられることが、いつのまにか一続きの線となっている。人に話して、もしも引かれたらどうしよう・・・。

自分が傷つくことを恐れためらっている。

しかし、親友とはなんだ。お互いがすべてを受け入れ信頼しあってこそ成立しあう関係。

相手は両手を広げどんなことでも受け入れてくれる用意をしてくれている。相手は、だから僕がなんでも話してくれると信じている。なのに僕が自分が傷つくことを恐れて話すのをためらったら、相手はどう思うだろう。

それは親友の信頼に対する冒涜だ。自身を守り、親友を傷つけることになる。いや、もっとひどい。僕は相手の僕に対する信頼に対して、猜疑心という仇で返しているのだ。

自分を守りたいが為に相手を傷つけてしまう。それも、僕がもっとも求めているすべてを受け入れてくれる相手を傷つけ、遠ざけてしまっているのだ。

関係が崩れることを心配したばかりに関係を崩してしまうなどといった過ちを犯さないためにも、僕は関係が崩れることを恐れてはならない。

僕は強迫性障害者であり、その症状にも説明責任がある。過去も背負っていかなければならない。それが僕だ。本当の僕だ。

話せば当然引く者も出てくる。それがどうした。もし話したことで僕を否定するのなら、その人がそういう人間で、その程度の関係でしかなかったというだけだ。

話すことで、本当の信頼を得ることが出来るのだ。僕の望んだ本当の親友が。

受け入れてくれる人は、すでに両手を広げて待っている。しかし、さがさなければ見つからない。探すとは?行動を起こすことだ。

あとは、恐れずに僕が障害を公言していけばいいだけの話なんだ。

今回、そのことを教えてくれた、ひとりの親友に感謝する。

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