わが青春のマイケル・チャン
2003年8月7日 テニスあうあうあう、引退しちまうだかマイケル・チャンよー(涙)。なんて感慨もひとしお。
僕のテニス人生はマイケルちゃん、じゃなくてマイケル・チャン、正しくはマイケル・チャングに始まりマイケル・チャンとともに終わりを告げたってんならカッコもつくけどとっくの昔に僕はテニスから比重を映画や読書に移しちゃってたわけで、なかなか映画のようにドラマチックにはいかないんだけれどもさ、それでも僕の人生の歴史にはこの人の名はかかせないのでございまする。
あいあいあい、ときは中学入学時、胸がときめく部活動、よっしゃ体育会だってんで手ごろに陸上部を選ぼうとした僕を、ちょっ、ちょっ、チョットまちーなって引き止めた今は疎遠の幼馴染M君が猛烈に誘ってきたのが軟式テニス部。
えーテニスってそのころ偏見神の化身だった僕はテニスなんてってもちろん偏見視したわけですけれどもここは友情に押されてしぶしぶOK。
やるからにゃ真面目にやろうよな!なんて男の誓いを立てたものの3ヶ月後にゃ幼馴染は部を去っていた。その頃から強迫性の完璧主義者バリバリだったわたくしはそんな程度でショック受け誓いを忘れたんかって喧嘩しいしい以後絶縁と何とも悲しい物語。あははと笑って流せたならば今でも関係続いていたかなん?なんて自分のさがを呪ってみても後の祭。許してくれろM君や、おろろ(TT)。
話を戻し、相変わらずテニスをなめきっとったぼくちんはボールをコートにいれりゃいーんだしょ?簡単簡単♪適当にラケット握ってボールに向かってスイングしたらばほらポーンってあれ?ボールが前に飛んでない。なんとならばラケットがボールに当たってないんだから飛ぶわきゃない。ろろろ?こんなはずでは?って今度はボールをよくみて振ってみる、あたったあたった!しかしボールは空のかなたの星の藻屑とかしたのでした。
おっとこの頃からですね、僕がテニスの奥の深さにのめりこみ出したのは。でもでも軟式テニスにゃその頃シングルスなんてなかったのよねぐすん。ぼくってシングルスがしたかったの。
てなわけで高校入学にあたって僕が硬式テニスを選んだのはいたって自然の道理なんですよ。
今思えばアスペルガーの典型的な性質ハマリ症、気づいてみれば自他ともに認める鬼のテニスマニアになっておりました。出ていたテニス雑誌は全部買い、テレビで撮りためた試合のビデオは卒業する頃には3倍6時間のやつが240本にまでなっておりましたってやっぱ異常だよね(汗)
そんなテニス中毒をひた走っておりました当時、活躍しておったのがアメリカ四天王ことP・サンプラス、A・アガシ、J・クーリエ、そしてM・チャンちゃんちゃんなのだすな。
何でこのなかでチャンを選んだかって?
だって僕たちゆうてもアジア人やない。チャンはアメリカ国籍なれど純系アジア人台湾系二世。
イチローを日本人が応援する感覚と一緒ですよ。
背の高い欧米系の選手がほとんどの中で、背も173cm(たぶんもっと低い)で、純系アジア人なんで足も決して長くないのに清水宏康みたいに筋肉つけてぶっとくしてどたどたどたと懸命に走るその姿に、今失われつつある日本人の精神を感じてしまったのですよ。
それからというものもうチャンチャン、チャンとチャン一筋。ラケットはもちろん、シューズ、ウェアからプレースタイル、打ち方まで全部模倣しましたよ。極めつけは卒業記念の作文にまでチャンのことを書いたっていかれっぷリ。さすがにクリスチャンにはならなかったけどね。
そんな僕、大学もテニスで選んだってのにどうしてテニス止めちゃったのってやっぱりこれは強迫性障害の悪化によるものと、ちいとばかし人間不信に落ちいっとったからなんですよ。ああ残念無念。それから僕はテニスの代わりとなることを模索し大学3年で読書と映画に活路を見出していったってわけ。
それでもちょこちょこテニスの情報は調べとった。
僕の大学入学とともにアメリカ四天王時代も終息を迎えつつあったわけで、まさにテニスも世代交代、新世代台頭、オールラウンドに何でもこなせる選手じゃないとトップになれない時代に変わろうとしていたのね。M・チャンやJ・クーリエのような後ろで打つだけのベースラインプレーヤーではもうだめやったんやね。J・クーリエの引退によって四天王時代は終わった。
そして今年マイケル・チャンが引退する。この引退とともに思うのは、僕も年とったなあってこと。マイケル・チャンは良くも悪くも僕の青春の大部分を占めていた。チャンを見ればあの頃がよみがえる。
今年チャンは引退をする。僕の青春、元気で活力のあった少年の頃の思い出とともに・・・。
なんて後半頭痛くてヘロヘロしながらかいてたんでめちゃくちゃかもしれんが見直す気力ももうないや。ゆるしてね。
それにしても今日の美空ひばり特集は良かった。感動したよ。♪愛、燦燦とー♪
僕のテニス人生はマイケルちゃん、じゃなくてマイケル・チャン、正しくはマイケル・チャングに始まりマイケル・チャンとともに終わりを告げたってんならカッコもつくけどとっくの昔に僕はテニスから比重を映画や読書に移しちゃってたわけで、なかなか映画のようにドラマチックにはいかないんだけれどもさ、それでも僕の人生の歴史にはこの人の名はかかせないのでございまする。
あいあいあい、ときは中学入学時、胸がときめく部活動、よっしゃ体育会だってんで手ごろに陸上部を選ぼうとした僕を、ちょっ、ちょっ、チョットまちーなって引き止めた今は疎遠の幼馴染M君が猛烈に誘ってきたのが軟式テニス部。
えーテニスってそのころ偏見神の化身だった僕はテニスなんてってもちろん偏見視したわけですけれどもここは友情に押されてしぶしぶOK。
やるからにゃ真面目にやろうよな!なんて男の誓いを立てたものの3ヶ月後にゃ幼馴染は部を去っていた。その頃から強迫性の完璧主義者バリバリだったわたくしはそんな程度でショック受け誓いを忘れたんかって喧嘩しいしい以後絶縁と何とも悲しい物語。あははと笑って流せたならば今でも関係続いていたかなん?なんて自分のさがを呪ってみても後の祭。許してくれろM君や、おろろ(TT)。
話を戻し、相変わらずテニスをなめきっとったぼくちんはボールをコートにいれりゃいーんだしょ?簡単簡単♪適当にラケット握ってボールに向かってスイングしたらばほらポーンってあれ?ボールが前に飛んでない。なんとならばラケットがボールに当たってないんだから飛ぶわきゃない。ろろろ?こんなはずでは?って今度はボールをよくみて振ってみる、あたったあたった!しかしボールは空のかなたの星の藻屑とかしたのでした。
おっとこの頃からですね、僕がテニスの奥の深さにのめりこみ出したのは。でもでも軟式テニスにゃその頃シングルスなんてなかったのよねぐすん。ぼくってシングルスがしたかったの。
てなわけで高校入学にあたって僕が硬式テニスを選んだのはいたって自然の道理なんですよ。
今思えばアスペルガーの典型的な性質ハマリ症、気づいてみれば自他ともに認める鬼のテニスマニアになっておりました。出ていたテニス雑誌は全部買い、テレビで撮りためた試合のビデオは卒業する頃には3倍6時間のやつが240本にまでなっておりましたってやっぱ異常だよね(汗)
そんなテニス中毒をひた走っておりました当時、活躍しておったのがアメリカ四天王ことP・サンプラス、A・アガシ、J・クーリエ、そしてM・チャンちゃんちゃんなのだすな。
何でこのなかでチャンを選んだかって?
だって僕たちゆうてもアジア人やない。チャンはアメリカ国籍なれど純系アジア人台湾系二世。
イチローを日本人が応援する感覚と一緒ですよ。
背の高い欧米系の選手がほとんどの中で、背も173cm(たぶんもっと低い)で、純系アジア人なんで足も決して長くないのに清水宏康みたいに筋肉つけてぶっとくしてどたどたどたと懸命に走るその姿に、今失われつつある日本人の精神を感じてしまったのですよ。
それからというものもうチャンチャン、チャンとチャン一筋。ラケットはもちろん、シューズ、ウェアからプレースタイル、打ち方まで全部模倣しましたよ。極めつけは卒業記念の作文にまでチャンのことを書いたっていかれっぷリ。さすがにクリスチャンにはならなかったけどね。
そんな僕、大学もテニスで選んだってのにどうしてテニス止めちゃったのってやっぱりこれは強迫性障害の悪化によるものと、ちいとばかし人間不信に落ちいっとったからなんですよ。ああ残念無念。それから僕はテニスの代わりとなることを模索し大学3年で読書と映画に活路を見出していったってわけ。
それでもちょこちょこテニスの情報は調べとった。
僕の大学入学とともにアメリカ四天王時代も終息を迎えつつあったわけで、まさにテニスも世代交代、新世代台頭、オールラウンドに何でもこなせる選手じゃないとトップになれない時代に変わろうとしていたのね。M・チャンやJ・クーリエのような後ろで打つだけのベースラインプレーヤーではもうだめやったんやね。J・クーリエの引退によって四天王時代は終わった。
そして今年マイケル・チャンが引退する。この引退とともに思うのは、僕も年とったなあってこと。マイケル・チャンは良くも悪くも僕の青春の大部分を占めていた。チャンを見ればあの頃がよみがえる。
今年チャンは引退をする。僕の青春、元気で活力のあった少年の頃の思い出とともに・・・。
なんて後半頭痛くてヘロヘロしながらかいてたんでめちゃくちゃかもしれんが見直す気力ももうないや。ゆるしてね。
それにしても今日の美空ひばり特集は良かった。感動したよ。♪愛、燦燦とー♪
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