●モーヴィの誘いで久しぶりにシネマ5に映画を見にいってきた。
前に見たのが4月26日だから、5ヶ月ぶりとか。
もう映画好きとはいえないかもしれないな。。
見た映画は『木漏れ日の家で』という、91歳の女優演じる老いた老人の全編モノクロ映画。
http://www.youtube.com/watch?v=mS8Q388syZs&feature
ポーランドっぽい坦々とした映画。
老人の一人暮らし、過去を思い出し犬と暮す生活。
老いの描かれ方が切ない。
モーヴィがこの映画を選んだのは、やっぱり福祉の仕事についたから?
とか思ったけどどうやら違ったみたい。
でも普段モーヴィが好む映画とは違ったので驚いた。
今年終わるまでにシネマ5のヴィンテージ会員の元を取るために10本は映が見ないと。。
●映画のあと、国木田君と落ち合って三人でジョイフルで昼飯。
んで、かんたんサーカスに行って海を眺めて本屋よってテニスマガジン買って帰った。
前に見たのが4月26日だから、5ヶ月ぶりとか。
もう映画好きとはいえないかもしれないな。。
見た映画は『木漏れ日の家で』という、91歳の女優演じる老いた老人の全編モノクロ映画。
http://www.youtube.com/watch?v=mS8Q388syZs&feature
ポーランドっぽい坦々とした映画。
老人の一人暮らし、過去を思い出し犬と暮す生活。
老いの描かれ方が切ない。
モーヴィがこの映画を選んだのは、やっぱり福祉の仕事についたから?
とか思ったけどどうやら違ったみたい。
でも普段モーヴィが好む映画とは違ったので驚いた。
今年終わるまでにシネマ5のヴィンテージ会員の元を取るために10本は映が見ないと。。
●映画のあと、国木田君と落ち合って三人でジョイフルで昼飯。
んで、かんたんサーカスに行って海を眺めて本屋よってテニスマガジン買って帰った。
映画 『サンシャイン・クリーニング』
2009年9月23日 映画〔洋画〕
http://www.youtube.com/watch?v=IXr5BNQn3b0&feature
人生は長い、華やかな時代、苦しみの時代、一人の人間の生涯は、そういった時代の往還である。禍福はあざなえる縄の如し。
学生時代にチアリーダーで注目の的だったローズも、今や低賃金の労働を余儀なくされる薄幸のシングルマザー。
同級生の幸せな姿に惨めさを味わいながらも、毎日鏡の前で「私は強い。私は何でもできる」と自己暗示をし、理想と現実のギャップの中けなげに生き抜いている。
子供を転向させるために今の職(ハウスクリーニング)では厳しくなり、不倫相手から紹介された事件現場の清掃を始める。
この仕事が将来性のあるニッチ業種であると感じた彼女は、フリーターの妹とともに「サンシャイン・クリーニング」という会社を設立する。
世界的経済不況の現在、彼女と似たような境遇に或る人は多いのかもしれない。苦しい毎日を頑張る彼女達の姿は、今見るからこそよりリアルに感じられる。だからこそ、共感を呼び、ここまで口コミで広がったのだろう。
結局、彼女の会社、サンシャインクリーニングも妹の失敗により頓挫し、彼女は最後まで薄幸のままなのだが、この仕事を通して知り合った人物、そして、彼女が折れそうになったときにさりげなく支える祖父などの存在が彼女の未来に光が来る可能性を仄めかしている。
劇中では幸せをつかめない彼女だが、途中で挫折しそうになりながらも自分の意志と人々の支えで最後まで、人生をあきらめることなく前向きであり続けて終わるこの作品に、僕はハッピーエンドに近い希望を感じることができた。
そう、人生は長い、彼女には再び幸せが訪れる。彼女が人生をあきらめずに、変革を望み前向きに行動し続けている限り。
と彼女の生き様を自分と被らせ、僕も日々に希望を失わずに前向きに生きていこうと思わされるのである。
ローズは30代半ばのシングルマザー。ハウスクリーニングの仕事をしながら8歳の息子オスカーを育てている。妹ノラにオスカーを預けて不動産業の資格取得講座に出かけることもしばしばだが、実際に向かうのは元恋人で不倫相手の刑事マックと落ち合うモーテルだ。ある日、事件現場を清掃する仕事で大金が稼げると教えられたローズは、嫌がるノラを無理矢理誘って犯罪や自殺の現場の清掃業を見様見まねで開始する…
人生は長い、華やかな時代、苦しみの時代、一人の人間の生涯は、そういった時代の往還である。禍福はあざなえる縄の如し。
学生時代にチアリーダーで注目の的だったローズも、今や低賃金の労働を余儀なくされる薄幸のシングルマザー。
同級生の幸せな姿に惨めさを味わいながらも、毎日鏡の前で「私は強い。私は何でもできる」と自己暗示をし、理想と現実のギャップの中けなげに生き抜いている。
子供を転向させるために今の職(ハウスクリーニング)では厳しくなり、不倫相手から紹介された事件現場の清掃を始める。
この仕事が将来性のあるニッチ業種であると感じた彼女は、フリーターの妹とともに「サンシャイン・クリーニング」という会社を設立する。
世界的経済不況の現在、彼女と似たような境遇に或る人は多いのかもしれない。苦しい毎日を頑張る彼女達の姿は、今見るからこそよりリアルに感じられる。だからこそ、共感を呼び、ここまで口コミで広がったのだろう。
結局、彼女の会社、サンシャインクリーニングも妹の失敗により頓挫し、彼女は最後まで薄幸のままなのだが、この仕事を通して知り合った人物、そして、彼女が折れそうになったときにさりげなく支える祖父などの存在が彼女の未来に光が来る可能性を仄めかしている。
劇中では幸せをつかめない彼女だが、途中で挫折しそうになりながらも自分の意志と人々の支えで最後まで、人生をあきらめることなく前向きであり続けて終わるこの作品に、僕はハッピーエンドに近い希望を感じることができた。
そう、人生は長い、彼女には再び幸せが訪れる。彼女が人生をあきらめずに、変革を望み前向きに行動し続けている限り。
と彼女の生き様を自分と被らせ、僕も日々に希望を失わずに前向きに生きていこうと思わされるのである。
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映画 『僕のピアノコンチェルト』
2008年7月28日 映画〔洋画〕スイスを代表する名優ブルーノ・ガンツ&神童テオ・ゲオルギュー共演で贈る感動作!思い描く夢を全て叶える能力を持つ少年ヴィトス。しかし、頭脳は天才でも心は少年のままの彼はその溝を埋めることができないでいた。そんな彼が自分自身でいられれるのは大好きなおじいさんと一緒に過ごす時間だけ。その優しさに満ちた時間の中で、人生は様々なパートの音と奏でるコンチェルトのようなものと気づいた時、大きな奇跡が起きる…。只の知識のみなら、天才であれば経験は関係ないだろうが、経験を伴う知識や、感情などの心の成長においては、人生という経験が必要だ。
だから、心に天才児はいない。
故に頭脳と子お炉の成長のスピードに誤差を生じた天才児ヴィトスは、子供が感じるのには早すぎる、孤独を実感し、憂愁を経験する。
現実にそれで才能をつぶされた天才児もいることだろう。
しかし、ヴィトスには幸運にも祖父という理解者がいた。彼の助けを得ながら、ヴィトスは天才児ならではの知性を生かしてその孤独を逆に利用し、憂愁の念を克服する。
天才児であるが故に味わわざるを得なかった孤独という早すぎる経験は、天才児ゆえに周りの子供たちよりも早くヴィトスを大人へと成長させていく。
映画 『厨房で逢いましょう』
2008年6月10日 映画〔洋画〕料理の腕前は超一流だが、他人とのコミュニケーションは人一倍苦手。
そんな孤高の天才シェフ・グレゴアが、平凡な主婦エデンに恋をした。
だが、口下手な彼に出来るのは、おいしい料理を作ってエデンの胃袋を満たしてあげることだけ。
エデンを想う恋心は彼の店の看板メニュー“官能料理”ことエロチック・キュイジーヌにも影響し、
その味わいはますます磨きがかり、口にした者を魅了していくのだが…
予告編ではさわやかな印象だったんだけど、実際観てみると以外に重たい内容で驚いた。
料理の恍惚感というものを表現するのは難しい。
前半は、料理外界にうまいかを演ずる役者が大げさに見えて、少し違和感があった。
料理のことだけ考えてきた孤独な男に、外部から料理以外のことが入り込んできたことで、人生の均衡が崩れる。
でもそれが人生というやつかもしれない。
女性の無邪気な行動は、一方で残酷だ。
この映画も誤解を発端として、歯車が狂っていく。
人間心理が引き起こす問題というのは、この映画に描かれたごとく、繊細で難しく、そして度し難い。
映画 『サルバドールの朝』
2008年5月14日 映画〔洋画〕1970年初頭、独裁政権末期のスペインを舞台に、不当な裁判で死を求刑された青年が闘った最後の日々を実話を元に描いた衝撃と感動のストーリー。主演は「グッバイ・レーニン」のダニエル・ブリュール。
独裁も支配者が、善政を貫けるなら、一つの社会の体制として現在も機能しているのだろうが、現状は独裁が必ず腐敗することを示している。
映画では成年の志にそこまでアナーキズムなものを感じさせない。どちらかというと、若さに裏打ちされた勇猛な好奇心と冒険心が発端のような感じだが、それが実際のところなんじゃないかと、逆にリアルではある。
圧制というものがどれほど民衆に苦痛を与えるのかは、僕たちには想像の範囲を出ないが、民主主義にもたくさんの民衆のルサンチマンは存在するのだから、やはり相当なものであったろうということは感じる。
圧政のうちにもっとも色濃く現れる不条理といえばやはり官憲の機能だろう。
裁判であって裁判でない。
これは歴史的事実であって、作品は、主にそこに焦点を当てているともいえる。
ただ、後半裁判の行方がメインになるなか、成年の社会的貢献という部分が薄弱であるように感じ、そこに不満残る。
ラストは、事実ではないだろうが、死刑執行するものもまた人間である、という死刑制度に対する一つの問いかけにはなっていると思う。
映画 『4分間のピアニスト』
2008年4月14日 映画〔洋画〕刑務所で受刑者たちにピアノを教えるクリューガーは、ある日、稀に見る才能の持ち主ジェニーに出会う。反抗的で暴力的なジェニーは、幼い頃から神童と騒がれた天才少女だったが、今では刑務所内随一の問題児となっていた。嫉妬心と憎悪を露にする看守や受刑者仲間の卑劣な妨害にもめげず、クリューガーはジェニーの才能に葬り去ったはずの自らの夢を託し、コンテスト出場を目指して厳しいレッスンを続ける。
人の人生には、人生の数だけ、ドラマがある。
それぞれの人生を知らなければ分かり合えないこともある。
厳格な老ピアノ教師と、類まれな才能を持った囚人女性のコンテストに向けた訓練の中で、心を通じ合わせていく。
才能にしか目を向けていなかった老教師は、囚人女性のという人間自体に興味を持ち出す。
「あなたには、才能がある。人間は与えられた才能を磨く義務がある」
自分の才能を運命によりつぶされた囚人女性の過去を老教師は知る。
お互いが過去を知り合ったとき、受け入れたとき、本当の信頼が生まれる。
いつしか教師は、彼女の才能を花開かせることよりも、その才能により彼女の人生を救いたいと思うようになったのでなはないか。
人の真の才能に目を向けるには、その人間をしっかりと見つめないことには出来ないことだと思う。
ラストの彼女の演奏は、これが自分だと主張する。
過去から、運命から逃れられるという安易なラストではない。
彼女は、老教師に向かって運命を犠牲にしてでも、自分という人間を見せたかったのだ。
その魂の叫びは、老教師の期待にそぐったものではなかったにしろ、老教師が期待した以上の何かを、教師の心に残したに違いない。
それは、女性囚徒の存在の意義を示してくれた老教師に対する、彼女の精一杯の返礼であったのではないだろうか。
映画 『エンジェル』
2008年4月4日 映画〔洋画〕1900年代初頭の英国。16歳のエンジェルは田舎町で小さな食料品店を営む母親と2人暮らしのつましい暮らしから目を背け、大時代なロマンス小説の執筆に情熱を傾けていた。やがて自らの出自さえ書き換えてしまうほどの類い稀な想像力と文才で一気に人気作家への道を駆け上がる。幼い頃から憧れていた豪邸パラダイスを買い取り、ノラという有能な秘書も得たエンジェルは、ノラの弟で孤高の画家エスメと恋に落ちる。
近年の映画監督の中で、注目している一人、フランソワ・オゾンの作品。
『まぼろし』を観たとき、巨匠となりうる可能性を感じたわけだが、今回の作品は、ぐっと大衆的な作風になっていて、その分、精神性の緻密さは薄れている。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、僕の期待からすれば、若干違ったものであった。
パンフを見ると、「人生の主役でいたい全女性に送る」と銘打たれているが、僕は作品からオゾン監督の冷徹な現実主義をみたような気がした。
エンジェルは、確かに望んだものをすべて手に入れたが、それを持続させることは出来なかった。
エンジェルは、信じれば適うという信念の元、一見すべての願望が叶ったように見えたが、すべてを手に入れた後の彼女の人生は、そこを頂点として転がり落ちていく。
それはつまり、「継続」という願望をエンジェルは手に入れることが出来なかったということだ。
無邪気で奔放で、傲慢で、一途な彼女の思いは、確かに好もしい美点にも映る。人々は彼女の姿に嫉妬し、羨望し、そして愛する。彼女は誰もが持つそういった人間性への憧れを具現している。監督自身も、エンジェルという女性像をけして悪意の元に映し出しているわけではないことは映像を通してよくわかる。
しかし、だからこそ、彼女の人生は、現実とは相容れない悲壮なものとならざるを得ない。
それはどうしてなのか。
つまりそれが現実というものなのだと。
人間が人間である証左なのだと。
無邪気で一途な願望は好もしく美しいが、各々の願望が交差するこの現実においては、そのような一方通行の願望は、破綻する運命にあるのだと。
映画 『ジェシー・ジェームズの暗殺』
2008年4月3日 映画〔洋画〕南北戦争にゲリラとして参加し、その後は犯罪集団となったジェシーとその兄フランクが率いるジェームズ一味。彼らが新たに企てた列車強盗計画に、ひとりの若者ロバートが加わった。彼は新聞や本でジェシー一味の活躍を知り、ジェシーに心酔していたのだ。列車強盗を行なった後、一味は分散して身を潜めることに。ロバートはジェシーに側に残るように言われ有頂天になるが……。
犯罪者も、その手腕が卓越しその道のカリスマとなればそこにヒロイズムが生まれる。アンチヒロイズムへの羨望は、いわいる大衆の、体制に対するルサンチマンのはけ口なんじゃないかと思ったりもする。
実際のジェシーがどのような人物だったのかは知らないが、この作品では、アンチヒーローであることを請け負った男の猜疑心と恐怖心をなかなか絶妙に描き出せていると思う、
ジェシーに憧れていたロバートが、結果的にジェシーの命を出汁に名声を得ようとするわけだが、ロバートが実際にこのような卑怯者であったのかどうかは、調べてないので皆目わからない。
が、この作品において、ジェシーへのヒロイズムを高めるために、ロバートの卑劣漢ぶりを強調することが必要だったのだろう。
ジェシーの悪を背負って苦悩しながらも生きる姿に、ある種の人間の強さを見出し、それゆえ人はジェシーに畏怖を覚えるのだと思う。
事件の被害者でない限り、犯罪に対する悪の重さは、人を出汁に使う道義心の欠如と同列、もしくはより軽く感じられるという心理作用は、戦争で爆撃の場面より、一人の人間をジワジワいたぶる場面の方がより残酷性を有していると見えてしまう感覚と通じるものがある。
仲間内で、互いの心理を伺いながらの食卓のシーンは、緊迫感に満ちていて、作品の中でも最もスリルのある場面だ。
静寂の中に、心の激しいやり取りがある。
この映画を退屈だと評する人は、そういう部分に目を向けていないからなんだろうな。
映画 『once ダブリンの街角で』
2008年3月27日 映画〔洋画〕アイルランド、ダブリン。多くの人が行き交うグラフトン・ストリートでオンボロのギターをかき鳴らし自作の歌を唄う男がいる。そこに一人の女がやってきた。10セントのチップを出し、あれやこれやと男に質問する。挙句、掃除機の修理の約束をさせられてしまう。翌日、壊れた掃除機を持って女が現れた。途中、ピアノを弾かせてもらえるという楽器店に立ち寄った。彼女の腕前に感心した彼は、一緒に演奏することを提案するのだった。
人と人との出会いは、当然別れのあるものもある。
だからといって、すべての別れがバッドエンドであるわけじゃない。
少し切ないけど暖かい、そんな別れもあるのだ。
別れには、彼、彼女等の気持以外の部分、状況、環境、運命、目標、すべての要素が関係してくる。
しかし、そんな別れのある出会いであっても、悲しくないのは、お互いがお互いの道を切り開き、人生の進展の切っ掛けを作った、それゆえの結果だからだ。
中島みゆきの歌にもあるように、「たとえサヨナラでも愛してる意味」なのだ。
愛とは、一つの形としてのみあるのではない。
愛とは、様ざまな形がある。
友情、異性愛、家族愛、隣人愛、それらすべては、愛の中の一つの形式に過ぎないのだ。
彼らの愛はなんだったのか。それは友情ともいえるし、恋愛に近い感情もあったかもしれない。唯一つ確かにいえることは、彼らは音楽を通して心を通じ合わせた。
彼らの間には、確かに「愛」が存在したということである。
音楽がすばらしくて、ぜひサントラを買おうと思ったけど、シネマ5には売ってなかった。
映画 『チャプター27』
2008年2月25日 映画〔洋画〕ニューヨークにやってきた青年、マーク・デイヴィッド・チャップマンは空港に降り立つと、ジョン・レノンが居を構えるダコタ・ハウスに直行した。目的は彼を殺害する事。レノンのファンでもあるチャップマンは、LPを手に待ち続ける間、彼は二人の人物と知り合う。一人は熱烈なレノン・ファンのジュード、もう一人はパパラッチのポール。彼らの前では、ちょっと入れ込み過ぎのファンを装いながら、決行のタイミングを窺っていた…。
僕はジョンレノンが大好きなので、これはぜひ見ておこうと思っていた。
本当のところは、わからないが、この映画を撮るにあたって、監督は、チャップマンと対面し、話を聞いたりしたのだろうか??
熱狂的な信者は絶大な信頼をその人物に寄せているから、裏切られたと感じたとき、その感情は憎しみへと転化しやすいものだと思う。
男女間の問題を見ても良く見られるケースだ。
信じていたからこそ許せない。
しかし、憎しみも愛情の一部だ。
ジョンレノンへの憧れと憎しみとの間で、チャップマンは葛藤し、理性と狂気の狭間で苦しむ姿がなかなかうまく描写されていた。
台詞の中に、「俺のジョンレノンだ」という言葉が印象に残った。
熱狂的なファンの中には、自分と同化させたり、あたかも自分に対してだけ語りかけているように思い込む人物がいるという話もよく聞くが、まさに、チャップマンは、レノンを自分だけのものとしたいがために殺害を思い至った。。という風な解釈も出来ないことはない。
ジョンレノンの評伝を一冊読んだが、チャップマンに対する詳細は記されていなかった。
そういえば、チャップマンが近く出獄の予定だったが延期されたと聞く。もし出ていたとしても、レノンの信者がいる限り、チャップマンの未来は常に命の危険をはらんだものとなるんじゃないだろうか。
映画 『この道は母へとつづく』
2008年2月24日 映画〔洋画〕ロシアの片田舎にある孤児院では、裕福なイタリア人夫婦に引き取られることが最上の幸せであり、誰もが選ばれる日を夢見ていた。ある日、ようやく6歳のワーニャにそのチャンスが巡ってくる。ところが、自分がイタリアへ去ったたあと、もしほんとうのママが会いに来たらどうなるのだろうと不安が芽生えたワーニャは、まず、年長の少女に字を習い、こっそり出生記録を調べ、実の母を探すため一人孤児院を脱走する。
ロシアには、現在も孤児が沢山いるみたいだ。
彼らは、大人になると、肉体労働者かグレるくらいしか無いくらい道は狭い。だけど、裕福な一家に養子に迎えられることで道が開ける可能性がある。
孤児院の院長は、孤児達を養子に出して利益を目論むが、だからといって院長が悪いわけでもない。
貧しいロシア経済では、こうやって餅代を稼ぐのも必然の成り行きだろう。院長が孤児院をやっているのは、やはり孤児達を救いたいという思いからであり、可能性の道を開かせたいからだ。
それは、恐らく院長自身が孤児で、夢に破れたものだったからだろう。
しかしながら、子供にとって生みの親とは掛け替えのない存在で、会いたいと思う一心な思いも理解できる。
孤児院には秩序があり、厳しいルールに基づいた仲間意識を醸成することが重要なのも解る。
つまり、誰が悪いということもない。ようは、こういった社会のあり方が悲しいというだけだ。
この作品は、事実に基づくいわいる「母を訪ねて三千里」もので、子供の純真な健気な心は、観るものの心を動かしもするが、この子が母親に会えたからと行って、他の子がそう上手くいくはずもない。
問題は問題として、厳然としてここにあり、孤児達は、今も養子になるチャンスを伺いながら孤児院で貧しく暮らしているのだ。
それにしてもこの子はかわいくもしっかりしているなあ。
厳しさは人を早く大人にしていくものなのだろうな。
風変わりな言動で周囲を驚かせるファニー(ナタリー・ブトゥフー)は兄夫婦と暮しているが、彼女にとって2人との生活は居心地が悪い。ある日許しがたい兄嫁の秘密を目撃してしまったファニーは、自分の殻を打ち破るため、大きな目的を胸に冒険の旅に出る。国境を越え森を抜け、ファニーは木こりの青年・オスカー(ラルス・ルドルフ)と出逢う。言葉の通じない2人は視線で心を通わせ、やがてファニーは生まれてはじめて優しい愛を知る――。
この女性の障害は作品で明らかにされていないが、自分に語りかけてくる存在、その存在に向かって「黙れ」といっている。
恐らく彼女は統合失調症だろう。
家族が障害を持つ者と住むことが、いかに神経をすり減らすのかはが描かれているわけだが、これは事実として、実際に甘受しないわけにはいかない。
彼女の豊かすぎる感受性は、常識の中では窮屈なことだろう。
展開がいささか急で、う〜んとうなってしまう。オスカーは最初、聾者なのかと思ったが、たんにもの静かな言葉の通じない人だった。
それにしても、何故彼女がここまで彼に心を開いたのか、いまいちよくわからない。
現実的に考えるなら、彼女は薬も飲まなきゃ行けないし、オスカーと出会ってそんなに時間も経っていないので、けしてハッピーエンドというわけではないと思う。
映画 『ショートバス』
2008年1月30日 映画〔洋画〕
DVD 角川エンタテインメント 2007/12/21 ¥4,935
いきなり、男性の局部から始まるこの映画。
日本版ではぼかしが入っているけど、US版では無修正という噂。。
出てくる女性がみんなホントにオーガズムを達してて、ホントにSEXしちゃってる、らしい。
しかし、見ていくうちにそんなことどうでも良くなってくる。
SEXを通して、人々の心が赤裸々になってくる。
心に傷やわだかまりを持った、孤独な人たちが集うパブ、ショートバス。
ここでの交流の中から、人々は自分自身を介抱させていく。
同性愛者のジェイムスが僕の心を捉えた。
彼は僕と似ている。
彼は恋人のジェイミーのことを言う「彼の愛が深すぎる、13歳の時に僕を乱暴した奴らと同じくらいに。。」
彼は、自分の価値をよくわかっているという。だから、その価値に見合わない愛を受けることに恐怖する。
彼は一度もジェイムスに入れさせた(つまり受入れる)ことがない。
ジェイムスの悲しみが、僕の心をかき乱した。
いつしか僕の涙は止めどなく流れていた。
ラスト、ショートバスに集う人々の心の融和が、得も言われぬカタルシスを僕らに与えてくれる。
この映画に出会えて良かったと心から思った。
9.11後のNY。ソフィアはカップル・カウンセラー。様々なカップルの悩みを解決していく一方で、実は一度もオーガズムを感じたことがないという悩みを抱えている。
ジェイムズとジェイミーはハンサムなゲイのカップル。愛し方が違い、なかなか想いが通じ合わない。
そしてSM女王のセヴェリンは、心を許せる人がいなく、日々孤独感を募らせていた。それぞれに思い悩みながら、彼らは足りない何かを探して、サロン“ショートバス”に集う。
そんなある日、NYの街は大停電に陥る。暗闇の中、それぞれの心には一体どんな光が灯るのか・・・?
いきなり、男性の局部から始まるこの映画。
日本版ではぼかしが入っているけど、US版では無修正という噂。。
出てくる女性がみんなホントにオーガズムを達してて、ホントにSEXしちゃってる、らしい。
しかし、見ていくうちにそんなことどうでも良くなってくる。
SEXを通して、人々の心が赤裸々になってくる。
心に傷やわだかまりを持った、孤独な人たちが集うパブ、ショートバス。
ここでの交流の中から、人々は自分自身を介抱させていく。
同性愛者のジェイムスが僕の心を捉えた。
彼は僕と似ている。
彼は恋人のジェイミーのことを言う「彼の愛が深すぎる、13歳の時に僕を乱暴した奴らと同じくらいに。。」
彼は、自分の価値をよくわかっているという。だから、その価値に見合わない愛を受けることに恐怖する。
彼は一度もジェイムスに入れさせた(つまり受入れる)ことがない。
ジェイムスの悲しみが、僕の心をかき乱した。
いつしか僕の涙は止めどなく流れていた。
ラスト、ショートバスに集う人々の心の融和が、得も言われぬカタルシスを僕らに与えてくれる。
この映画に出会えて良かったと心から思った。
映画 『プロヴァンスの贈りもの』
2008年1月29日 映画〔洋画〕
DVD 角川エンタテインメント 2008/01/11 ¥4,935
あくまで大量の遺産や財産を有した者に適用できるお話だけど、人生を取るか仕事を取るかという問題は誰にでもついて回る。
名誉や栄誉なんてものは離れてみると、人生にとって重要なものではないということを言いたいのかどうなのかは解らないけど、プロヴァンスの風景はホントきれいですな。
愛するものにであって、結果田舎の大切さを教えられる?愛するものが都会でもいいよと言えば、屋敷を売り払っていたのだろうか。
仕事を退くことを引退といったりもするが、形を変え人生は引き続いていく。
仕事のみを人生と考えるのは、あまりにもさもしい人生だ。
「愛してくれる人を裏切った」
愛するものを裏切ってはいけないのは当然だが、愛してくれるものも、その愛に報いていかないのは、傲慢だ。
ロンドンの金融界で働くトレーダー、マックスは、叔父の遺産を相続するため、少年時代の夏休みを過ごした南仏プロヴァンスを20数年ぶりに再訪。
この地で過ごすうちに見失っていたものに気づき、愛する女性に出会い、プロヴァンスの光とワインに触れて、本当に大切なものを見つけていく。
あくまで大量の遺産や財産を有した者に適用できるお話だけど、人生を取るか仕事を取るかという問題は誰にでもついて回る。
名誉や栄誉なんてものは離れてみると、人生にとって重要なものではないということを言いたいのかどうなのかは解らないけど、プロヴァンスの風景はホントきれいですな。
愛するものにであって、結果田舎の大切さを教えられる?愛するものが都会でもいいよと言えば、屋敷を売り払っていたのだろうか。
仕事を退くことを引退といったりもするが、形を変え人生は引き続いていく。
仕事のみを人生と考えるのは、あまりにもさもしい人生だ。
「愛してくれる人を裏切った」
愛するものを裏切ってはいけないのは当然だが、愛してくれるものも、その愛に報いていかないのは、傲慢だ。
映画 『パンズ・ラビリンス』
2008年1月26日 映画〔洋画〕
DVD アミューズソフトエンタテインメント 2008/03/26 ¥3,990
僕は、その理想の国が描かれていると思っていたけど違った。
よくよく考えてみれば、ラビリンスなのだから、その理想の国に行くまでの迷宮が描かれているのは当然のことだね。
母の再婚相手のビダルは、厳格な軍人であり、体裁、対面、名誉を重んじ、規律のためなら、人間の命すら軽んずる酷薄な男である。
共産主義のレジスタンス達は彼に対抗している。
オフェリアが仲良くなった女中はレジスタンスの送ったスパイだった。
共産主義が今日、破綻すべきものだったという結果はさておき、共産主義の理想はもともと善良なものから発する。
だからといってどちらが正義だということは言えないのだけれど。
この作品では共産主義者達が善良な人々として描かれているね。
主義云々の問題ではなく、養父に問題がある。
母親が、自らの命を犠牲に子を産んだとき、少女は現実に見切りをつけた。
オフェリアが理想の国へ行くための試練は三つあるが、何よりの試練は、現実主義の大人達だったろうと思う。
最終的に、彼女は、死を持って試練を果たすことになるが、この場面は、予想外で、思わず涙腺がうるんでしまった。
彼女は、試練を果たし、理想の国にいけるわけだが、ここでもって初めてその理想の国の一端を見ることができる。
父親と母親がいる。母親は死んだあの母親のように見えたけど・・・?
パンフレットの表紙は、まさにこの理想の国に行くことができた瞬間の彼女だったわけだ。
しかしながら、この作品は、ハッピーエンドではない。
彼女は結局、死を持ってしか理想の国へたどり着くことはできなかった。
つまり、現実の世界に理想の世界に描かれるような平和は存在しないというアイロニカルな作品なのだ。
彼女が出合ったラビリンスが、本当の世界の話なのか、はたまた少女の作りあげた想像上の世界なのか。
どちらにしても、これは悲しい大人の童話であることに変わりない。
内戦で父を亡くしたオフェリアは、母の再婚相手のヴィダル大尉の元に身を寄せるが、彼は残忍な本性をちらつかせる。孤独と不安に苛まれ、森を彷徨うオフェリアが足を踏み入れたのは迷宮。彼女の前に現れたパン(牧神)は「魔法の国のプリンセスに違いない。それを確かめるためには、3つの試練を克服しなければ」と言うのだった…。過酷な現実との対比としての、理想の国。
僕は、その理想の国が描かれていると思っていたけど違った。
よくよく考えてみれば、ラビリンスなのだから、その理想の国に行くまでの迷宮が描かれているのは当然のことだね。
母の再婚相手のビダルは、厳格な軍人であり、体裁、対面、名誉を重んじ、規律のためなら、人間の命すら軽んずる酷薄な男である。
共産主義のレジスタンス達は彼に対抗している。
オフェリアが仲良くなった女中はレジスタンスの送ったスパイだった。
共産主義が今日、破綻すべきものだったという結果はさておき、共産主義の理想はもともと善良なものから発する。
だからといってどちらが正義だということは言えないのだけれど。
この作品では共産主義者達が善良な人々として描かれているね。
主義云々の問題ではなく、養父に問題がある。
母親が、自らの命を犠牲に子を産んだとき、少女は現実に見切りをつけた。
オフェリアが理想の国へ行くための試練は三つあるが、何よりの試練は、現実主義の大人達だったろうと思う。
最終的に、彼女は、死を持って試練を果たすことになるが、この場面は、予想外で、思わず涙腺がうるんでしまった。
彼女は、試練を果たし、理想の国にいけるわけだが、ここでもって初めてその理想の国の一端を見ることができる。
父親と母親がいる。母親は死んだあの母親のように見えたけど・・・?
パンフレットの表紙は、まさにこの理想の国に行くことができた瞬間の彼女だったわけだ。
しかしながら、この作品は、ハッピーエンドではない。
彼女は結局、死を持ってしか理想の国へたどり着くことはできなかった。
つまり、現実の世界に理想の世界に描かれるような平和は存在しないというアイロニカルな作品なのだ。
彼女が出合ったラビリンスが、本当の世界の話なのか、はたまた少女の作りあげた想像上の世界なのか。
どちらにしても、これは悲しい大人の童話であることに変わりない。
映画 『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』
2008年1月20日 映画〔洋画〕 コメント (2)
DVD 紀伊國屋書店 2002/05/25 ¥5,040
映画というよりもバッハの伝記を映像とナレーションで見せるドキュメントみたいな感じ。
個人的には嫌いじゃないけど、ここまでドラマ性をそぎ落すとやや面白みに欠けるのも事実。
この時代の建造物や衣装への細部のこだわりは、感嘆すべきものだが、みんなカツラ姿なので、誰がバッハか解らなくなって理解の妨げになる。これは、僕のせいだけどw
音楽は、素晴らしい。
グスタフ・レオンハルトがバッハに扮し、全篇で演奏を展開。バッハ30代後半以降を示す歴史的資料の映像、バッハ作品ゆかりの場所における演奏およびドラマで構成され、2人目の妻アンナのナレーションで回想していくパノラマ感覚の映像美ドラマ。リアリティーを追求した作品。
映画というよりもバッハの伝記を映像とナレーションで見せるドキュメントみたいな感じ。
個人的には嫌いじゃないけど、ここまでドラマ性をそぎ落すとやや面白みに欠けるのも事実。
この時代の建造物や衣装への細部のこだわりは、感嘆すべきものだが、みんなカツラ姿なので、誰がバッハか解らなくなって理解の妨げになる。これは、僕のせいだけどw
音楽は、素晴らしい。
映画 『ミリキタニの猫』
2008年1月15日 映画〔洋画〕ドキュメンタリー作家のリンダは、ニューヨーク、ソーホーの路上で絵を描いている日系人ホームレスの老人ミリキタニに出会い、彼に興味を持つ。9.11の日もいつも通り、絵を描いていた。リンダは彼を自宅に招き、今まで知らなかった彼の過去を知る。米国籍を持ちながら、戦争中は強制収容所に入れられ、市民権も失くした事。そこで離れ離れになったままの姉がいる事。癒えない傷と怒り、そして平和への願いが彼に絵を描かせていた。
路上で絵を描き続ける老人。
ミリキタニは一人、寒い冬も暑い夏も、絵を描き続ける。
若い頃に芸術に生きると誓った。
しかしその道は戦争によって、戦争で受けた理不尽によって奪われてしまった。
彼は過去に生きている。
過去のために自分の生き方を変えない。
自分のことを絵のマエストロと呼ぶ。
生き方を変えないことこそが、自分の国から存在を否定されたことに対する存在証明の反抗なのだ。
彼を支えているのは、アメリカに対する怒りと、戦争への悲しさと、平和への希求である。
ドキュメンタリー作家のリンダが、偶然この老人と出会ったことからこのドキュメンタリーはできあがった。
リンダは、自分の家にミリキタニを招き入れた。
老人との共同生活が始まる。
そして、リンダを通じて、彼は生き別れた姉や、親族、知り合いとの再会を果たしていく。そして、老人の心も徐々に変化し、心の壁が溶解していく。
拒んでいたアメリカからの社会保障を受入れ、老人養護施設で生活を始める。
人との偶然の出会いから、縁が生まれ新たな世界が花開いていく。
姉と会ったとき、彼が老人ホームで絵の教室を開くとき、ポーカーフェイスの彼の表情の奥に限りない喜びを見いだした。
強がりの口調の奥にある、慰安と暖かさを感じた。
老人のそれまでの寂しさと、ずっと戦ってきた孤独な辛さ、多少強情な癇癪持ちなところが、クリスマスイブで僕が会った老人と重なった。
暖かい人に囲まれているミリキタニを見たとき、僕は自然に涙を流している自分に気が付いた。
ぬぐってもぬぐっても、その涙はあふれ出してきた。
僕はその涙が嗚咽に変わるのを必死に我慢しながら見続けた。
彼は絵を描き続ける。平和のために。傷ついた人々のために。
そして自分の為に。
老人は本当に誰もが認める絵のマエストロとなった。
人々の縁の素晴らしさ。心の素晴らしさ。
人生の不思議さを感じずにはいられない作品だった。
映画 『オーシャンズ13』
2008年1月14日 映画〔洋画〕
DVD ワーナー・ホーム・ビデオ 2007/12/19 ¥3,980
12を見ていないので、話に所々、想像で補うしか無いところが出てきた。
続きものの宿命だから、これはまあ仕方ないだろうけど、あえていうならそこの所の親切さがあるかないかで、こういった作品は、客足も違ってくるのではないかと思う。
豪華な俳優人に、巨額を投じて制作された大エンターテインメントという感じだが、展開の中心がカジノに絞られているようで、豪華ホテルのうまみをうまく出せていないように感じる。
見ていてそれなりに面白いが、それ以上でもそれ以下でもなく、印象としては11よりも弱い。
13人はさすがに登場人物として多く、僕は全員を把握しきれなかったし、やはり中心人物の数人がメインとなって、その他の人物達に深みがない。
シリーズがこのまま続くのか、これで終るのかはわからないが、人数が増える形で続いていくのであれば、この問題は常につきまとってくることだと思う。
最後のヘリで天井を奪いさるあたりは、ルパンのカリオストロを彷彿とさせた。
映画の要所要所で、日本的要素が盛り込まれていて、しかも昔のように経済的な理由からの皮肉ではなく、一つのファッションとして描かれていて、作品の趣旨とは関係ないが、日本文化も今や無視できないものとなりつつあるのだなあと感じた。
どうでも良いが、曙太郎が出ていたらしい。でも僕は見つけられなかった。
ド派手なリベンジにしようぜ
より大胆に、より危険になって、ヤツらが帰ってきた。ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、マット・デイモン、そして監督スティーブン・ソダーバーグが再集結。手に汗握るスリルと極上のユーモア、スタイル&クールに今度もキメる。ダニー・オーシャン率いるチームが復活。今度の獲物は冷酷無比なカジノ経営者であり、オーシャンの仲間を裏切ったウィリー・バンク(アル・パチーノ)。暴力なしで誰も傷つけず、バンクを懲らしめるために集う仲間たち。ターゲットはふたつ。ひとつはバンクが自身の名を付けた新しいカジノ・タワー“バンク”のグランド・オープンを狙い、バンクを財政的に破綻させること。もうひとつはホテル経営者最高の栄誉である“5つのダイヤ賞”の受賞を阻むこと。プランは完璧。実行不可能の危険なゲームが今始まる!
12を見ていないので、話に所々、想像で補うしか無いところが出てきた。
続きものの宿命だから、これはまあ仕方ないだろうけど、あえていうならそこの所の親切さがあるかないかで、こういった作品は、客足も違ってくるのではないかと思う。
豪華な俳優人に、巨額を投じて制作された大エンターテインメントという感じだが、展開の中心がカジノに絞られているようで、豪華ホテルのうまみをうまく出せていないように感じる。
見ていてそれなりに面白いが、それ以上でもそれ以下でもなく、印象としては11よりも弱い。
13人はさすがに登場人物として多く、僕は全員を把握しきれなかったし、やはり中心人物の数人がメインとなって、その他の人物達に深みがない。
シリーズがこのまま続くのか、これで終るのかはわからないが、人数が増える形で続いていくのであれば、この問題は常につきまとってくることだと思う。
最後のヘリで天井を奪いさるあたりは、ルパンのカリオストロを彷彿とさせた。
映画の要所要所で、日本的要素が盛り込まれていて、しかも昔のように経済的な理由からの皮肉ではなく、一つのファッションとして描かれていて、作品の趣旨とは関係ないが、日本文化も今や無視できないものとなりつつあるのだなあと感じた。
どうでも良いが、曙太郎が出ていたらしい。でも僕は見つけられなかった。
映画 『ジャンヌ・ダルク裁判』
2008年1月13日 映画〔洋画〕
DVD アイ・ヴィ・シー 2000/04/25 ¥3,990
ブレッソンの作品は、他に「スリ」しかみていないが、双方共に言えることは、淡々と事実として描こうとしているところだ(「スリ」は事実ではないけれど)。
ドライヤーの無声映画との違いもあるだろうけど、ブレッソンの展開は早い。
ロングショットではなく、短いショットの連続で、観るものの心裡に迫ってくる。
基本的には、ジャンヌ・ダルクの裁判記録に基づいているので、ストーリーや話の流れにドライヤーのと大差はないが、見せ方が真逆。演出が違うだけでこれほども違った映画になるものかと思う。
ブレッソンは女優を起用しているので、ドライヤーに比べて現実の人間味に若干欠けるように思える。
見せ方はドライヤーの方が大仰なのに、そう感じてしまうのが映画の不思議だ。
ドライヤーでは、聴衆が、ジャンヌを聖者のように扱い、死をもったとき暴動が起きるのだが、ブレッソンの作品の場合、聴衆もダルクにヤジを浴びせる。
実際には、ブレッソンの方が事実に近いのではないかと思っている。そういう意味でも、ブレッソンは、あくまで事実にこだわったと言えるのではないかと思う。
魔女裁判にかけられ、死を恐れながらも最期まで屈することのなかったジャンヌ・ダルクの生涯を、現存する裁判記録をもとに映画化したロベール・ブレッソン監督の感動の名作。
ブレッソンの作品は、他に「スリ」しかみていないが、双方共に言えることは、淡々と事実として描こうとしているところだ(「スリ」は事実ではないけれど)。
ドライヤーの無声映画との違いもあるだろうけど、ブレッソンの展開は早い。
ロングショットではなく、短いショットの連続で、観るものの心裡に迫ってくる。
基本的には、ジャンヌ・ダルクの裁判記録に基づいているので、ストーリーや話の流れにドライヤーのと大差はないが、見せ方が真逆。演出が違うだけでこれほども違った映画になるものかと思う。
ブレッソンは女優を起用しているので、ドライヤーに比べて現実の人間味に若干欠けるように思える。
見せ方はドライヤーの方が大仰なのに、そう感じてしまうのが映画の不思議だ。
ドライヤーでは、聴衆が、ジャンヌを聖者のように扱い、死をもったとき暴動が起きるのだが、ブレッソンの作品の場合、聴衆もダルクにヤジを浴びせる。
実際には、ブレッソンの方が事実に近いのではないかと思っている。そういう意味でも、ブレッソンは、あくまで事実にこだわったと言えるのではないかと思う。
映画 『トランスフォーマー』
2008年1月5日 映画〔洋画〕
DVD パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2007/12/19 ¥4,179
幼い頃、アニメに親しんだものは、ちょうど僕と同じくらいの年令だと思う。
実写映画化するには頃合いだったのかもしれない。
懐かしさに惹かれて足を運ぼうという気にさせる。
CGの技術は、トランスフォームを違和感の無く再現できていた。
この間、アニメのトランスフォーマーをやっていて、第1話を見たとき出てきた台詞と同じのが、この作品でも使われていた。
正義のサイバトロンと、悪のデストロンと構図だけど、これはトップの人徳(っていうのか?)の違いの影響が大きい。トップが違えば、立場が真逆になるという危険性を含していて、アニメでは、部下は、サイバトロンでもいただけない考えを持つ者は結構いた。
惜しむのは、メガトロンの変身形態が銃ではなかったこと。
アメリカの銃規制に配慮してのことだろうか。
コンボイに文句はない。
目まぐるしいアクションが展開されるが、もう少しストーリーに重みを持たせても良かったのではないかとも思う。
僕はアニメ版の主題歌を大変気に入っていたので、エンドロールにでも流してくれれば良かったのになぁ。
イラクで正体不明のヘリコプターが突然巨大ロボットに変身。米軍基地に攻撃を開始するという事件が起きた。米軍の総攻撃も全く歯がたたず、基地は壊滅をしてしまう。一方、アメリカでは高校生サムが初めて自分の車を持つことに。中古でカマロをゲットした彼だが、その愛車カマロがある夜に暴走を。車泥棒に盗まれたと思い、あわててその後を追うサム。だがそのサムが見たのはカマロが変形(=トランスフォーム)してロボットになる様子だった! その後、サムはロボットに変形したパトカーに襲われて…。
幼い頃、アニメに親しんだものは、ちょうど僕と同じくらいの年令だと思う。
実写映画化するには頃合いだったのかもしれない。
懐かしさに惹かれて足を運ぼうという気にさせる。
CGの技術は、トランスフォームを違和感の無く再現できていた。
この間、アニメのトランスフォーマーをやっていて、第1話を見たとき出てきた台詞と同じのが、この作品でも使われていた。
正義のサイバトロンと、悪のデストロンと構図だけど、これはトップの人徳(っていうのか?)の違いの影響が大きい。トップが違えば、立場が真逆になるという危険性を含していて、アニメでは、部下は、サイバトロンでもいただけない考えを持つ者は結構いた。
惜しむのは、メガトロンの変身形態が銃ではなかったこと。
アメリカの銃規制に配慮してのことだろうか。
コンボイに文句はない。
目まぐるしいアクションが展開されるが、もう少しストーリーに重みを持たせても良かったのではないかとも思う。
僕はアニメ版の主題歌を大変気に入っていたので、エンドロールにでも流してくれれば良かったのになぁ。