●週に一度の社員朝礼で、常務のお話のとき、突然名指しで帽子の被り方を褒められた。
正直何か怒られるのかとびびった。
その後、数人の別部署の社員から、すれ違う時に帽子で褒められたなぁ、と声をかけられた。
しかし、そのとき僕は実は帽子を適当に被っていて髪が出放題だったので、怒られると思ったのだし、何故褒められたのか皆目見当がつかない。
という話を同じ部署の社員にしたら、遠くてよく見えんかったんやろ、とのこと。

●僕という人間を理解してもらうには、僕という人間性、僕の障害、僕の性質、これらをしっかり自分で話さない以外にはかなりの確率で誤解を招く、ということは以前からわかりきったことである。
しかし、そういう話をするのは案外に難しい。
別に話すことに抵抗は無い。隠すつもりもないし、もったいぶっているわけでも後生大事にセンチメンタリズムに浸るつもりも無い。
でも、言ったら、少なからずそういう様相を呈してしまう、というかそう受け取ってしまう人もいるかもしれないことが嫌で話しづらいというのもある。
人に歴史あり。誰でも人生は色々あるし、僕の場合もいろいろあったことを話すだけのことなのだが、稀に、痛く哀しい顔で共感を呈してくれる人がいる。その気持ちはすごくありがたいし、実際僕自身も大変だったのだと思っているのだけど、それは相対的に誰々の人生と比較して大変だったというわけではなくて、絶対的な僕の感性で、ああ大変だったな、と思っているだけなのだ。
だからあなたの人生も僕と同様に大変だったのだし僕の知らない大変さも味わってきたのだし、僕の人生があなたの人生よりことさら大変なわけではないんですよ。ということを伝えたいのだが、僕が人生を語ることでその後僕を見る視線の中にある種の憂いを含んだ慈愛が投げかけられるとなると、それは理解とはまた何か違ったもののように感じて嫌なのだ。
つまり、そういう感情が含まれることで、なにかしらの遠慮がうまれ、打ち解けるのに必要な垣根が逆に高くなり、その遠慮や配慮がじゃまをして人間関係に最終的に到来すべきある種の気の置けなさが、センチメンタリズムによって絶望的なまでに遠のいてしまうかも知れないことが恐いのである。

こと職場に関してはそういう思いが強い。
僕が話したところで、特別な感慨も無く、へえ、そんな人生やったんやとカラカラ笑い、あんたも結構大変やったなぁ程度のことで、だけど、あんたがなんで人見知りなんかはよくわかったけん、私も気にせん了解した。あんたもあんま気にせんとリハビリするつもり少しずつでも頑張ってやってき〜って感じで進んでくれるなら、もっと抵抗無く話せるんだろうけどなぁ。
てか、そんな対応されたら一発で心開きそう。

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